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第2回 城下町ウォークラリー

私たちが住んでいる佐伯の町を歩いて歴史を勉強しました(四教堂塾主催)

下の地図をクリックしてご覧ください

武家屋敷のウォークラリーを見る

地図上の○に数字をクリックするとその位置へ飛びます

2006年11月25日 四教堂塾主催で城下町を散策するウォークラリーを開催しました

昔の地図です 今回は歴史を学びながら今回は町民が住んでいた部分を巡るコースです
前回は武家屋敷と寺を巡るコースでした

パノラマ写真はクリックすると大きなパノラマが出ます

@大手前公園に集合
←クリック

1826年(文政9年)の地図 クリックすると大きな地図が出ます

文化会館にある佐伯城の復元模型

大分市のドムスムトウ社に文政9年の地図やその他の資料を元に
描いて貰った鳥瞰城下絵図 (禁複写ダウンロード)

伊能忠敬が測量した豊後佐伯の地図 クリックすると大きな地図が出ます

この伊能図は文化7年(1810年)3月伊能忠敬が測量して作られた
地図を明治初期に当時の旧海軍水路部が模写したものです
伊能地図は幕府に上程した地図も控えの地図もすべて焼失しており
現在では模写図ともいえど大変貴重な資料です その資料調査が行われ
2007年1月22日(月)〜24(水)海上保安庁海洋情報部で調査したところ
豊後日向の地図が最高なレベルの模写図として高く評価されました

このたび四教堂塾の渡辺氏が海上保安庁からそのコピーを高い金額で購入しました
(2007年7月1日購入)詳細は渡辺氏作成の
四教堂塾のホームページの伊能忠敬のページをご覧ください
全体図(豊後日向 第183号)は下のような大きな範囲の地図で海上保安庁が持っている模写図(全147枚)の中でも
豊後日向第183号のこの地図がそれらの中で最高なレベルの原寸彩色模写図だそうです (禁 無断転載)

海上保安庁海洋情報部 伊能図大図模写図詳細調査についてをご覧ください

歴史年表

 
478年 漢字、儒教伝来
 717年 尺間神社創建?
 767年 佐伯宿禰久良麻呂(さへきすくねのくらまろ)豊後守となる
 795年 (延暦14年)、海上警備の「佐伯部(さえきべ)」を配置、「佐伯院」と呼ぶ
 806年 「五所明神」を塩屋村に創立。 弥生・祇園「八坂神社」創建
 807年 「大宮八幡社」を戸穴村に創立。「灯明寺」創建
 808年 本匠村に医王山「長楽寺」創建
 816年 「城八幡社」創建
 886年 大神良臣(おおがよしおみ)、豊後介となる
 892年 大神良臣の子=庶幾(これちか)、大野郡領となる
1157年 「木浦鉱山」の記述現る
1176年 豊後国戸穴荘のくだりあり
1186年 大神一族、緒方一統、三重惟衡の子=惟家・@惟康=初代佐伯三郎と称す
佐伯三郎惟康(これやす)、一の谷の平氏に参陣(佐伯氏初見) A惟朝 B惟忠
      C惟久(これひさ) D政直(まさなお)(惟直)・惟佐(これすけ)兄弟 E惟宗
      F惟仲 G惟秀・惟賢(これかた) H惟世(これつぐ)惟直・惟光・惟安
      I惟治(これはる)・惟勝 J惟常 K惟教(これのり) L惟真(これざね)
      M惟定(これさだ)と続き、一時的な空白期もあるが、400年間に亘り、佐伯の
      地域を治める
1192年 源頼朝 鎌倉に幕府を開く
1196年 大友能直、守護職として豊後に入国(源頼朝の寵児?)(小田原・大友の出)
1200年頃 緒方惟栄の菩提弔いのため、旧龍護寺跡に草庵を結ぶ
1326年 上小倉磨崖石塔を造る?
1335年 佐伯の領主、佐伯讃岐守大神朝臣・惟貞、当時、三重・宇目両郷を合わして領す
1336年 南北朝の対立(佐伯=南、大友=北)(宇目には、南北朝・両方の碑文あり)
1341年 「粟嶋神社」建立(渡辺左右衛門尉一族、小浦に住み着く?)
1359年 佐伯山城守、大友氏時(北朝方)の摩下で従軍
1361年 宮方(皇室)佐伯地方に駐屯
1420年頃 御手洗一族、安芸の「小早川」氏に追われ、竹野浦に漂着
1441年 佐伯惟世(これつぐ)、中国・大内勢を堅田に撃破
       この前後、島津、大友、戸次氏らと婚姻関係を結ぶ
1524年 佐伯惟治「龍護寺」再建
1527年 (大永7年)、栂牟礼合戦。菊池義国、大友義鑑(よしあき)、臼杵長景らに攻められ
佐伯惟治、尾高知山にて自害?。子・千代鶴、西野に死す
1528年 佐伯惟勝(これのり)、栂牟礼城を占拠
1530年 大友義鎮(宗鱗)誕生。この前後、深田一族、宇目に居す。 鉄砲伝来
1548年 摂津の国から、渡辺大学重顕、宇目に居す
1555年 川中島の戦い(上杉謙信、武田信玄)に破れ、甲斐一族、宇目・木浦に亡命?
1557年 佐伯惟教、氏姓の争いで伊予国八幡浜に亡命
1569年 佐伯惟教父子、佐賀関に復帰
1573年 織田信長天下を平定
1576年 大友義鎮(宗鱗)、宮の内に仮屋を設け、大入島に狩す
1586年 堅田合戦(宇山・高城を中心に)、島津勢2千の兵、赤木村吹原峠を越
      え、大越川を下り進発。佐伯勢、中山峠に1,800人の本陣を敷く。
      大友軍、戸次川原の合戦に敗れ、府内城を押さえられる
      佐伯勢、因尾に島津軍を撃退する
1587年 秀吉、大軍を率い大阪を出発。.皐月15日、島津軍、豊後から撤退
      3月17日、佐伯勢、梓峠で島津軍を迫撃、羽柴秀長、藤堂高虎、佐伯に宿泊。
     惟定を案内人に、日向に攻め込む。
      5月3日、島津義久降伏し、秀吉、九州を平定する
1590年 豊臣秀吉 全国を統一
1593年 大友吉統(よしむね)、送還され、豊後の国没収さる。小藩分立となる
1594年 毛利高政、日田に封ぜられ、佐伯藩を預かる(太閤秀吉の側近ながら外様)
1601年 毛利高政、佐伯荘に入部(以来270年間毛利家が続く)(徳川家外様)
1603年 徳川家康、江戸幕府を開く
       岡藩から辻半兵衛「木浦山勘定奉行」に任命さる
1604年 (慶長9年)、佐伯城築城に伴い、山上の八幡詞を自潟に移し、城山八幡宮とす
1605年 (慶長10年)、毛利家の菩提寺として龍鼎山「養賢寺」創建
1608年 (慶長13年)、長曽我部支族の為に、東光山「大日寺」創建
1632年 床木、堅田等天領となる
1642年 石川康長墳墓の上に高政ご母堂の帰依した「善教寺」を移築
1644年 讃岐屋・渡辺某ら6人で、碧松山「久成寺」創建
1701年 佐伯藩毛利家六代藩主=毛利高慶(たかよし)御郡回りはじめる
1777年 毛利高標、「四教堂」を興す
1781年 「佐伯文庫」開設(蘭学等西洋の書物8万冊を蔵書)
1810年 伊能忠敬が豊後から日向を測量
1812年 百姓一揆勃発
1867年 大政奉還 江戸幕府滅ぶ
1871年 廃藩置県
1877年 西南戦争(西郷隆盛)で、佐伯・南郡地方が戦場となる
陸地峠、小野市一帯、梓峠、吹原峠〜堅田の戦死者、臼坪の陸軍墓地へ葬る

出発前 地図を見せ説明

この大手前もかっては潮入り川(堀を兼ねていた)だったんですね 今でも名残の水路が

このたび大日寺の前を右折し 完成した京町通りへ向かいます

A大火にに何度も会いそのたびに町名が変わったところです
 現在は京町通りとなり 道路もきれいに改修され 本日
 こうじ屋さんまえで甘酒とぜんざいのお接待を受けました
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B旅館宝来屋さん前で

C新小路と呼ばれていた通り
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D西田病院裏の通り

E昔は潮入り川だったところです

川の向こうにあたる山際には門のある武家屋敷が並んでいたそうです
管理人が子供頃はこの他まだいくつか門がありました

途中に三泉のひとつ甘泉の標識が

F角石関門が会った場所です この先には和田坂があり桝形関がありました

G札場があった附近 当時荷物は海上輸送が主でしたので
ここでは出入りする荷物の検査などしていたのでしょうか
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Hここまで川だったんです 今の場所は埋め立て作られた道路です

今の道路からかなり低かった昔の1階部分

I船着き場 管理人も子供の頃ここから舟に乗って遊んだ思いでがあります

J住吉神社も昔は楠の横でした 神社境内でサーカスなど見た思い出があります
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Kここ現在のバス通りは昔は内町川だったんです
今では埋め立てられ 住吉橋が架かり主要な道路になりました
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L新屋敷 ここも潮入り川だった場所です

M潮入り川への水路の名残

ここには昔 内町川の向こうの向島(ほうじま)との間に諸木橋が架かっていました
管理人が子供の頃城東橋や太平橋は残っていましたが この諸木橋はもう無かったと思います


N出発して1時間半 出発点まで戻って来ました 参加記念品とおみやげを戴いて大満足

これが参加記念 四教堂塾長 佐藤巧氏作成の切り絵で作った佐伯名勝図絵

佐伯藩時代の地図 明治初期に作られた地図
古地図A 古地図B
明治初年頃の地図

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